くりカボチャ日記

無断転載しないでください。

CELTAを受講しています 英語講師への道

CELTAコースに参加している。

何かの迷いでうっかり申し込んでしまった。英語は仕事でも使っているので自信があった。なので、まあ大丈夫だろうと思っていた。

CELTAコースは英語の先生になるためのコースだ。むかし英語を教えた経験はあるし、教えることで英語の知識が深まったりもするのを知っているから、CELTAコースは改めて英語の知識を見つめなおす良い機会だ、ぐらいに思っていた。

この点を誤ってとらえていた。

CELTAコースは英語の先生になるためのコースでしかない。英語を教えるためのテクニックを徹底的に叩き込まれる。英語が話せるとか英文法を分かっているとかというのはコース参加の前提条件にしかすぎず、会話力を磨くとか英文法を議論するとか、そういった機会はまったくない。もしかすると、英会話力に自信がない人がCELTAコースに参加し他の参加者と交流したりすることで英会話力をつけるという使い方もあるのかもしれないが、おそらく英会話力が怪しい人は申し込み段階でスクリーニングされ参加させてもらえないだろう。そもそも他の参加者も模擬授業の準備とか提出課題の作成とかで忙しく、交流を楽しむといった悠長なことをする余裕はない。

CELTAはもともとイギリス人が外国で英語を教えるためのツールとしてデザインされた。イギリス人なので、英語で英語を教えることが前提だ。おそらくCELTAコースの正しい使い方は、海外の滞在先でも英語を教えることができるよう、大学を出たイギリス人とかがギャップイヤーに旅行に行く前とかに取るといったところなのだろう。

ただ、もう英語はイギリス人だけのものと言っていられる状況ではとうの昔になくなっている。CELTA主催元もそのことは分かっていて、たとえば現在の参加の要件の一つには、イギリス英語もしくは「国際的に受け入れられている英語」をネイティブと「同等に」操れることとある。いま私が参加しているCELTAコースには、コースの先生(tutor)にも受講者(teacher)にもイギリス人はおろか英語ネイティブはひとりもいない。それぞれの英語力のレベルは分からないが、クイーンズイングリッシュでは決してないし、驚くほど流暢なわけでもない。

そんなコースで徹底的に叩き込まれるのは、CELTA流の英語の教え方だ。CELTA流、という点がポイントだ。優れた英語の知識とか英語を教えた過去の経験とかレッスンプランの創造力とか、CELTAは全然興味がない。CELTAの関心はCELTA流で英語を教えることができるかどうか、だ。CELTAのクオリティは主催元のCambridgeによってコントロールされており、主催元は品質保証の意味でディプロマを出す。だから、CELTA参加者はCELTA流の英語教授法に合わせて模擬授業を作らなければならない。CELTA流の教え方をレクチャーされ、それを模擬授業で実践する。CELTA流の通りにできていないと、tutorだけではなく同僚の受講者からも徹底的に批判される。これが結構堪える。批判されるポイントは、あなたの英語力でも生徒の理解度でも創造力でもない。レクチャーで教わったCELTA流を実践できているか否か、それだけ。だから、いまCELTA流ではない方法で英語を教えている人とかもけっこう堪えているようだ。むしろ何も経験がない人のほうがすんなり入っていくことができる点で有利だろう。

まだコースは完了していないので、しばらく修業の時期が続く。もう半分以上こなしてしまったので、おとなしく最後のレッスンまで修業を続けることにするつもりだ。