くりカボチャ日記

無断転載しないでください。

CELTAとは? 受講を終えて考えてみる。

そもそもCELTAとは何か?コースを終えて全貌も見えたところもあり、受講者なりの視点で振り返ってみたい。

 

コースで学ぶ内容は、大きく分けて次の3つ。

  1) 講義 Input Session

  2) 模擬授業 Teaching Practice, TP

  3) レポート Assignment

1) で学んだ内容を2)で実践する。2)で学んだ内容を3)で書き物にすることで分析させる。

最もしんどいのは、2)のTPだ。

そもそも、講義で学んだ内容をすぐ実践できるのか?きょう自動車の乗り方について理屈を教えるから明日は実際に車で会社に来てみてね、と言っているのと同じだ。無茶だし危険だ。もちろん、授業に当たりしっかり計画とかを立てるのだが、計画したとおりに授業が進まないことなど普通だ。

そして、授業をしている最中でも、あれをしろとかこれが抜けてるじゃんとかいった、容赦ないつっこみがチューターから入る。そのつっこみに対処していると授業を回すことがおろそかになり、そのことでもまたつっこみが入る。車で言うならば、ここでクラッチを踏みながらギアを変えてすぐアクセルを踏んでとか勉強した手順を思い出しながら集中してなんとか運転しているのに、やれスピード出し過ぎとかワイパー動かせとか助手席の人が絶えず注文を言いつけてくる感じだろうか。そんなことで前方不注意とかになったらもっと危ないが、CELTAのTPではそうやって前方不注意になるようなプレッシャーをあえて掛けてくる。運転教習だったら助手席にもブレーキがあるのでいざとなったら車を止めてくれるのかもしれないが、CELTAのTPでは自分でどうにかしなくてはならない。授業のトラブルの回し方も実践して体得させるスタイルだ。

授業が終わったら反省会で、チューターや他の受講生からいろいろと指摘が入る。チューターにほめてもらっている人を見たことがない。

TPのしんどさに比べれば、Assignmentはまだ楽だ。準備に時間があるので、自分のペースで作業すればよい。各内容は基本的には講義で学んだことやTPで実践したことだったりするので、さほど困難なわけでもない。ただ、文章の英語力もさることながら、講義で学んだターミノロジーを正しく使えているかは厳しく見てくる。講師になったとき、自分で勉強なり他の講師から学んだりする際に、ターミノロジーを正しく使いこなせないとしんどいからだろう。

CELTAが終わって何よりうれしいことは、もうTPのことを考えなくてもよいことだ。これでようやく睡眠不足が解消される。

CELTAを受講しています 英語講師への道

CELTAコースに参加している。

何かの迷いでうっかり申し込んでしまった。英語は仕事でも使っているので自信があった。なので、まあ大丈夫だろうと思っていた。

CELTAコースは英語の先生になるためのコースだ。むかし英語を教えた経験はあるし、教えることで英語の知識が深まったりもするのを知っているから、CELTAコースは改めて英語の知識を見つめなおす良い機会だ、ぐらいに思っていた。

この点を誤ってとらえていた。

CELTAコースは英語の先生になるためのコースでしかない。英語を教えるためのテクニックを徹底的に叩き込まれる。英語が話せるとか英文法を分かっているとかというのはコース参加の前提条件にしかすぎず、会話力を磨くとか英文法を議論するとか、そういった機会はまったくない。もしかすると、英会話力に自信がない人がCELTAコースに参加し他の参加者と交流したりすることで英会話力をつけるという使い方もあるのかもしれないが、おそらく英会話力が怪しい人は申し込み段階でスクリーニングされ参加させてもらえないだろう。そもそも他の参加者も模擬授業の準備とか提出課題の作成とかで忙しく、交流を楽しむといった悠長なことをする余裕はない。

CELTAはもともとイギリス人が外国で英語を教えるためのツールとしてデザインされた。イギリス人なので、英語で英語を教えることが前提だ。おそらくCELTAコースの正しい使い方は、海外の滞在先でも英語を教えることができるよう、大学を出たイギリス人とかがギャップイヤーに旅行に行く前とかに取るといったところなのだろう。

ただ、もう英語はイギリス人だけのものと言っていられる状況ではとうの昔になくなっている。CELTA主催元もそのことは分かっていて、たとえば現在の参加の要件の一つには、イギリス英語もしくは「国際的に受け入れられている英語」をネイティブと「同等に」操れることとある。いま私が参加しているCELTAコースには、コースの先生(tutor)にも受講者(teacher)にもイギリス人はおろか英語ネイティブはひとりもいない。それぞれの英語力のレベルは分からないが、クイーンズイングリッシュでは決してないし、驚くほど流暢なわけでもない。

そんなコースで徹底的に叩き込まれるのは、CELTA流の英語の教え方だ。CELTA流、という点がポイントだ。優れた英語の知識とか英語を教えた過去の経験とかレッスンプランの創造力とか、CELTAは全然興味がない。CELTAの関心はCELTA流で英語を教えることができるかどうか、だ。CELTAのクオリティは主催元のCambridgeによってコントロールされており、主催元は品質保証の意味でディプロマを出す。だから、CELTA参加者はCELTA流の英語教授法に合わせて模擬授業を作らなければならない。CELTA流の教え方をレクチャーされ、それを模擬授業で実践する。CELTA流の通りにできていないと、tutorだけではなく同僚の受講者からも徹底的に批判される。これが結構堪える。批判されるポイントは、あなたの英語力でも生徒の理解度でも創造力でもない。レクチャーで教わったCELTA流を実践できているか否か、それだけ。だから、いまCELTA流ではない方法で英語を教えている人とかもけっこう堪えているようだ。むしろ何も経験がない人のほうがすんなり入っていくことができる点で有利だろう。

まだコースは完了していないので、しばらく修業の時期が続く。もう半分以上こなしてしまったので、おとなしく最後のレッスンまで修業を続けることにするつもりだ。

英語と敬語

 「英語には敬語はない」という話を聞いたことがある。

 英語を習いたての頃とかは、そうなんだと素朴に信じていた。

 日本語には敬語があり、小さなころから敬語を正しく使うことを家庭なり学校なりで教えられる。社会に出れば敬語を正しく使えることが当然とされる。一方で、学校で習う英語には、ていねいな表現などはあるものの、日本語の敬語表現にあたるものは存在しない。テレビなり映画なりで目にするアメリカ人を主とした外国人は陽気でフレンドリーで、敬語とかを使うかしこまった世界とは無縁に見える。敬語にうんざりしている我々には、そんな英語がどれほど魅力的に見えたことか。

 だが、敬語がないからといって敬意を表現する必要がないわけではない。

 英語圏なり海外では、職場で上司や取引先などと話をするときに気を遣ったりする必要がないのか? たぶん気を遣わなくてなならない場面とかもあるだろう。たとえば、アメリカ系の会社とかでは上司の存在は絶対だ。オフィスで働くアメリカ人がどれほど上司におびえながら毎日仕事をしていることか。日本のよくある会社みたいに上司に議論をふっかけるとか、まずありえない。彼らは、自分の職場での存在は上司の一存に掛かっていると思っている。そんな上司に気を遣わないわけがない。

 では、どうやって敬意を表現するのか。

 日本で暮らしている我々は、日本でのコミュニケーションでどうやって敬意を表現するのか知っている。敬語はおそらくその大きな割合を占める。敬語を使っていれば、表面的にはお互いを尊重しあっているように見える。すくなくとも日本語コミュニケーション環境ではそのように扱われる。

 だが、英語にはそういう便利な表現法が残念ながら存在しない。

 なので、ひとつの方法として、英語では気を遣っていることをじかに表現する。たとえば、「いまお忙しいと思いますが、ちょっと質問とかしても気になったりしませんか?」といった感じだ。前段が長ければ長いほど気を遣っている割合が大きいように聞こえる。日本語でもそうやって相手に気を遣う表現をする場面もあるだろうが、我々は敬語でもっとスマートに敬意を表現する術を知っている。だが、敬語がない英語で敬語のような雰囲気を出そうとするならば、方法はこれしかない。

 もうひとつの方法は、まあ日本でもあるだろうが、単純にゴマすりをすることだ。上司に明るく話しかける。やたらほめる。上司への返事はいつもポジティブ。好意を持っていますよという気持ちを表現するわけだ。ただ、敬語がない分、英語圏の人たちのするそれはかなり露骨だったりもする。

 どちらも、敬語のようにテクニカルに処理できるものではない。言葉や文化への理解度が試される。日本語の敬語にはそういう面は薄い。テクニカルに処理できる。そういう意味で、敬語というものは実によくできている。